人間の本性とはなにか
何为人的本性
佐藤優
若い世代に小説を読む機会をつくっているという点で芸人の又吉直樹氏は読書界で重要な役割を果たしている。
艺人出身的又吉直树在出版界所承担的重要任务就是为新一代年轻人制造阅读小说的机会。
『劇場』のストーリー自体は、比較的単純だ。関西から出てきた演劇青年の永田が、女優を夢見て青森県から出てきた沙希と出会い、同棲し、別れる過程を描いた恋愛小説だ。もっとも恋愛小説であるにもかかわらず、又吉氏はセックスに関する描写を徹底的に避けている。永田と沙希はセックスレスではない。セックスの描写を避けることで、性愛以外の愛の可能性を又吉氏は強調したかったのだと思う。
《剧场》是一部爱情小说,其故事本身比较简单,讲述了来自关西的戏剧演员永田和来自青森、梦想成为演员的沙希在东京相遇,然后同居、分手的过程。不过,尽管这是一部爱情小说,又吉却对性描写完全不着笔墨。永田和沙希均非性冷淡之人。又吉回避性描写,大概是为了强调性爱之外的爱情的可能性吧。
ギリシア語では、性愛を含む何かに渇望する愛をエロースという。これに対して、見返りを求めずに一方的に与える愛(例えば神の愛)がアガペーだ。
在希腊语中,“厄洛斯(Eros)”一词表示对包含着性爱成分的某种事物的渴望的爱。与之相反,“阿加比(Agape)”表示不计回报的单方面给与的爱(例如神的爱)。
『劇場』で強調されているのは、人間と人間が真に理解し合う友情から生じる愛を意味するフィリアだ。永田と沙希の間には性愛はあっても、お互いに心の底から理解し合うことができない。その根本的な原因は、永田と沙希の発する言葉から悪が生み出されるからだ。
而《剧场》所强调的,是在人与人真正互相理解的友情之上发展起来的爱,即菲利亚(Philia)。永田和沙希之间虽然有性爱,但没能从心底互相理解对方。其根本原因在于从二人的言语中产生的“恶”。
具体的にテキストを読み解いてみよう。喫茶店で永田が、演劇をやる青山(女性)から沙希に関する話を聞く。
我们来具体地解读一下原文。在咖啡店,永田从戏剧演员青山(女)那里听到一些与沙希有关的话。
〈「沙希ちゃんにね、彼氏がいるっていうのは聞いてて、沙希ちゃんがすごい彼氏のこと褒めるんですけど、みんなで具体的に話を聞いて行くと『最低じゃねえかよ』ってなって、それが永田さんだったっていうのがおかしくって」
青山は面白くて仕方がない様子で、声を出して笑いそうになるのを腰を曲げることで懸命にこらえていた。
「デートの時にコンビニで高菜おにぎり買って食べたって本当ですか?」
「うん」
「えっ、なんで? マジでウケるんですけど」
腹が減ったから、食べただけだ。そんなに笑い続けるような話題でもない。
「でも、なんで沙希ちゃん、彼氏が演劇やってるって言わなかったんだろ」
そう言われてみればそうだと思ったが、沙希が服飾の学校に通っていた時から、知り合いに自分のことを話されるのを僕が嫌っていたからだと思う。もしかすると僕が誰かに馬鹿にされるのを沙希自身も恐れていたのかもしれない。自分のいない所で話されることなんて悪口に決まっているのだから想像しただけで苦しくなる〉
この会話には、悪意が積み重ねられている。デートの時にコンビニで高菜おにぎりを買って食べたということを強調することで、青山は永田が金に困っていてかつ沙希の気持ちを考えていない男だということを言外に非難している。
这段对话充满了恶意。青山刻意强调“约会的时候在便利店吃高菜饭团”这件事,言外之意是在指责永田不但没钱还全然不顾沙希的感受。
また、沙希が、永田が演劇に従事していることを告げなかったということで、「沙希はあんたを演劇人として認知していないよ」という意味を醸し出している。
另外,沙希不把永田是戏剧演员这回事告诉别人,也暗含“沙希就把你当正儿八经的戏剧演员看”之意。
もっともビジネスパーソンが居酒屋で誰かの噂話をするときも、このような悪意が含まれていることがよくある。感受性の強い永田は、後で沙希を詰る。
其实,人们不管在酒吧说谁的闲话,都多少带着些恶意。然而敏感的永田事后却责备起沙希来。
〈「なんでそうなるかわからないよ」
そう言った沙希の顔が電源を切ったテレビの画面に暗く映っている。青山から聞いた話を沙希に話しているうちに怒りが抑えきれなくなり不満が口から溢れだしたが、なにに怒っているのか自分でも今ひとつわからなかったので、「自分で考えてみろ」と同じ言葉を繰り返したり、長い間黙ったり、とにかく僕は自分でも驚くほど冷静さを欠いていた。
「私が永くんを馬鹿にするわけないよ」
「自分がそう思ってても、たとえ悪意がなくても人を傷つけることもあんねん。その了解の範囲がお前は狭いねん」〉
〈悪意がなくても人を傷つけること〉 がどうして起きるのか。この点に関して、イエス?キリストは、「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである」(「マルコによる福音書」7章20~23節)と強調した。
“毫无恶意也能伤人”的事是怎么发生的呢?耶稣基督曾经说过:“从人里面出来的,那才能污秽人,因为从里面,就是从人心里发出恶念、苟合、偷盗、凶杀、奸淫、贪婪、邪恶、诡诈、淫荡、嫉妒、诽谤、骄傲、狂妄。这一切的恶都是从里面出来,且能污秽人。”(《马可福音》第7章20~23节)
人の中から出てくるものの中に言葉もある。人間には罪が内在している。この罪は、悪という形をとって現れるのだ。永田と沙希のやりとりの続きを見てみよう。
语言也是从人里面出来的东西。人的罪是内在,这种原罪以恶的形式显现出来。且看永田和沙希接下来的对话。
〈「なんで、絶対馬鹿になんてしてないよ。一番すごいってわかってるから」
沙希は切実に訴えてくるから、余計に惨めになる。一番すごい? そんなわけがない。その言葉が僕に重くのし掛かる。(中略)
自分の悪い所なんていくらでも言える。才能のないことを受け入れればいい。嫉妬している対象の力に正々堂々と脅えればいい。理屈ではわかっているけれど自分では踏みきれない。人に好かれたいと願うことや、誰かに認められたいという平凡な欲求さえも僕の身の丈にはあっていないのだろうか。
世界のすべてに否定されるなら、すべてを憎むことができる。それは僕の特技でもあった。沙希の存在のせいで僕は世界のすべてを呪う方法を失った。沙希が破れ目になったのだ。だからだ。
「お前のせいやろ」
「えっ」
沙希は深刻そうに溜息をついた。
「わかんないよ、なんでだろう。ちょっと待ってね、考えるね、待ってね」〉
言葉は難しい。本人が無意識の中で抱いている悪意が言葉によって具体化されてしまうことはよくある。他者を傷つけるのは人間の本性だということをよく自覚しておく必要がある。
说话是一项艰难的艺术。当事人无意识的恶意往往通过言语具体地表现了出来。人的本性就是伤害他人——这一点,人们应该有自知之明。
仅供学习,请多指教
赞赏